メディア露出

 三年生になって校長が代わった。新校長の政策の一環かは不明だが、学校制度が大きく変わった。例えば、今まで使用時以外は完全施錠であった視聴覚室が常時開錠され、夏季や冬季は異装が常時許可された(昨夏季は8月も授業日だったためかもしれないが)。

 課題であった入学者の減少を打開すべく、今年度はメディア露出が今までに比べ圧倒的に増えた。新聞のみならずテレビ取材も行われ、当時は感染対策のためクラスを半分にわけてSTが行われたが、偶然にも私のいたグループにテレビカメラが来た。緊急事態宣言下であったがそろそろ解除されるとの話で、5月末のある日に出校日を設けた。その日は、課題提出のあと、今後の状況を鑑み、Zoomを用いてのオンライン授業を開講する可能性が拭いきれなかったことでその説明をするのも兼ねていた。噂によると近隣では一番早くこの活動に取り組むことになったため取材を受けたらしい。

 いざ取材が始まると、教室の裏口から大きなカメラが入ってきた。三脚も持っていたから、どこに立てるのかと思っていたらまさかの私の机の横に設置した。カメラマンから、「ちょっと撮らせてもらうね」と言われたときはかなり焦った。担任から、「Zoomを用いたオンライン授業について説明します。配布されたプリントを読んで、Classiに送られたリンクからZoomにログインしてください。」と説明をうけ、さっそく私はそれに取り組むことにした。カメラのことをふと思い出して横目でみると、おもいきり私の手元を録っていた。それから、時折教室を歩き回って録っていたが、自分近くに来たときは緊張した。カッターシャツからインナーが出ていないか確認した。説明に一区切りをつけSTをやりもう帰宅は可能だった。しかし担任が、「Zoomに入れた人は行後にテストするから付き合ってほしい。」と言われ私も参加した。

 Zoom試験は楽しかった。担任は隣の教室に行き、我々は教室のいたるところへ分散した。私は廊下へ出て行って、取材風景を見ていた校長とツーショットをした。タブレット越しでそれを見ていた担任はどう思っただろうか。

 それも終わった後、帰り支度をしていると、担任と会話をしていた教頭に呼び止められた。曰く、ディレクターがインタビューをやりたいそうだ。了承した私は、ディレクターからのいくつかの質問に淡々と答えた。帰宅後、祖父母にインタビューが使われるかもしれないと報告だけはした。

 放送日を教えてはもらえなかったが、腕章の番組名をみたら見覚えのあるニュース番組だった。次の日から私はその番組の放送時間はテレビにかじりつき今か今かと待った。数日して詳細が出た。当日になり、予定時刻が迫ると私は緊張した。実際に放送が始まると、うちのクラス以外にも学校の取り組みなどを取材していることを知った。私もかなり映ったが、まさかのインナーを直しているところが使われてしまった。インタビューもしっかり出て、自分は笑いながら観た。5分のO.A.であったが、終了後友人に電話をし、また笑いあった。近所の人からも、「出てたね~」なんて話しかけられた。どう答えていいかわからず、「出るかわからなかったからずっと緊張しました。」と一応に答えた。

 数日後、また教頭に呼び出された。そこにはあのディレクターがビデオカメラを持って立っていた。「この前はインタビューありがとうね。また何個か聞かせてもらっていいかい。」と尋ねられた。承諾した私はまた淡々と答えた。しかし、そのとき録った映像はその後テレビにもでることもなく、今でも何だったんだと不思議に思っている。

実用英語技能検定

 毎年多くの人が受験する、実用英語技能検定、略して英検を私は高校生活の中で3回受験した。一年第2回、二年第1回と第3回だ。今回は、その中で印象深い回の思い出を語っていく。

 高校入学時は3級を持っていた。準2級は中三の時に適当に受けたら落ちてしまったので一年第2回はリベンジ戦であった。会場は近隣の大学。会場に入ると見覚えのある顔がいくつかあったが、席に座ってみるとまさかの後ろはクラスメートでその後ろは1コ上の上級生であった。私が驚いたのは先輩が受けていることではなく、同じ学校が縦三列にそろったことであった。当日、本来だったら柔道大会に出場していたはずだった私は、試験中はずっと大会のことを考えていた。そのとき決心したのは、来年はこの時期に英検を受験するのはやめよう、であった。結局、翌年のその時期は英検を受けず柔道大会に出場した。リーディングもあと少しで終わろうとしていたとき、私は違和感を覚えた。教室が揺れていた、そう地震が起きたのであった。時間としてはごくわずかであったが、試験監督たちが長いこと話し合い、「先ほどの地震の影響を鑑み、試験時間を15分延長します。」と言ったときは内心嫌だった。腹が減ってたまらなかった私は、試験時間の延長で昼食を摂る時間が伸びてしまったことを恨んだ。

 一次試験を突破し、学校で二次試験の練習をすることとなった。同じ試験会場にいたクラスメートと放送室で練習をしたのだが、スクリプトに初めて見る単語があった。comfortableってなんだ。幸い私は後に練習だったため先にやっているクラスメートの発音を真似しようと耳を澄ました。彼は、「コンフォータブル」といったから、私は「コンフォータブル」と読むのかと思い、自分の番で同じように「コンフォータブル」と読んだ。練習終了後、担当の先生が開口一番、「まず君たち、この単語(comfortable)は、コンフォータブルと読みません。カンファタブルです。」とため息交じりに言った。それからというもの授業でこの単語が出てきたら、2人して当時の先生のセリフを思い出し真似をしている。

 読めない単語があってもそれっぽく読もう。

2月になるとふえるもの

 気が付けば今日から2月で、2021年も8%が終わったことになった。時の流れは早いものである。主観的な年月の長さは年齢によって早く感じるという現象(生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例すると主張したもの)を、ジャネーの法則というらしい。

 あと28日で高校の卒業式。自由登校日を抜いた登校日数はあと13日だが、私は大学入試があるのであと11日だ。私立高校なんかは今月の初頭に卒業式だから、登校日数は我々よりもさらに短い。

 2月の年中行事といったらなにがあるだろう。そんなことを思ったわたしはウィキペディアを見てみると、2月4日からの立春があった。もう冬は終わり、春が訪れる。暖かくなり、虫やほかの動植物が目を覚まし活動を始める。それ以外にも、ほかのモノも動きが活発になる。変質者だ。

 学校で度々連絡され、防災情報アプリにも通知が来る。特に春先になると増える。露出、痴漢、ロクなやつがいない。帰り道には気を付けよう。

円の面積

 共通テストが終わったことは以前の記事で話した通りである。二次試験に数学を用いる生徒は私のクラスではいないので、共通テストに向けた授業を展開していた数学は、今はかなり自由な授業を展開している。例えば、応用数学の授業では今はSPI対策問題の非言語分野(数学と算数)をやっている。数Ⅱでは、いつぞやどこぞやの高校入試の数学をやった。

 久しぶりに高校入試の問題を目にした。中学の時では解けなかったであろう問題たちも、今は造作もない。図形の面積と整数が何問か出ていたが、私はある問題でペンが止まった。円の面積である。

 理由は簡単。面積の公式が一瞬浮かばずはっきりと出てこなかったのである。円周率×半径の二乗、こんな簡単な公式でさえも浮かんでこなかった。たとえ私が極度の数弱である身だとしても、私はなんとか数ⅡBまでの高校数学の過程を履修したはずでは?なぜ?

 結局その問題は解けたが、自分としてはかなり悔しいことをしてしまった。みなさんも日ごろから計算をする習慣をつけて、義務教育の算数数学ぐらいなら容易に解けるようになるといいでしょう。私からの助言だ。

 

センターライン上のレフト

 わが校の体育では、毎年初めの選択種目としてソフトボールが選択可能である(但し私が一年生の時は、男子のみソフトボールだった)。野球好きで週末も友人と硬式球でプレーしていた私は、もちろん毎年ソフトボールを選択した。

 守備位置はというと、小学校のころにPTAのチームでも守っていたレフトをやることが多かったが、二年次はサードや時々ショートを経験し、三年次に至ってはサードとピッチャー以外の全ポジションに回ることが多かった。キャッチャーでは数試合でマスクを被り、セカンドとショートでは1イニングだけ守ったりで場所によって守備機会はさまざまだった。捕球が悪くエラーすることが多かったため、チームには特に内野をやっていたときはかなり迷惑をかけた。

 打撃で貢献しているかというと微妙だ。三年次は、打順は3番や5番をメインで並んでいたが、序盤こそ安打を重ね時にはタイムリーを放つこともあった。しかし高めにバウンドさせての内野安打が多かったため打点をあまり稼ぐことができず、時には併殺打になってしまうこともあった。終盤にはそれすらままならずフライの連続で進塁打さえままならなかった。通算打率は数えてないのでわからないが、3割序盤かそこらであろう。

 題名のセンターライン上のレフトとはなにか疑問に思った人も多いだろう。あれは三年次のある試合でのできごとであった。当時、ショートに野球部を入れていた私のチームは、基本的にそこを越えての打球は滅多にこなかった。バッターはとりわけ強打ではない、したらばセンター方向をカバーしようと私はかなりの前進守備でセカンドベースの真後ろまでチャージして立つことをした。幸い打球はショートを越えることはなかったが、もしバッターがボールを芯でとらえショートを越えようものならランニングホームランもありえる。いわばギャンブル的要素があった。センターを信用していなかったわけではない。チームに貢献しようとしたあまり奇奇怪怪な行動に至ってしまった。

 ソフトボール然り野球は暫くしていないが、将来は草野球なんてのもやってみたいなとは心のどこかで思っている。大学でそういう系のサークルや部活動に入るかもしれない。下手の横好きとはこのことである。

 

大阪から東京へ

 2019年の夏ごろ、私は家族で東京旅行に出かけた。観光した場所はいくつかあったが、私の目当ては、当時日本未来科学館で開催されていた「マンモス展」と目黒寄生虫館であった。なぜこの二か所を目当てとしていたのかは諸君のご想像にお任せする。

 車で行ったのだが、行きの道中に初めての経験があった。場所は忘れたが、あるSAで休憩しようとなった。私はトイレに行きさっさと車に戻ったのだが他はお土産店を見て回るということで私は携帯をいじりながら車で待っていた。しばらくしてから家族が車に戻ってきたがなんとなくわかったのだったが、ドアを開けると聞き覚えのない青年の声がした。困惑もつかの間、母からヒッチハイカーを乗せることにしたから協力してと言われた。さらに困惑した。曰く、彼は大阪から東京までヒッチハイクをしており、偶然ここのSAで降りて休憩し次の運転手を探していたところに母が声をかけ乗せることにしたらしい。人見知りな私は極力会話は避けたくイヤホンを耳に刺した。父と母はその若者と会話が弾んでいた。姉も両親に混ざって会話をしていたのを覚えている。私は内心、なんで拾ってくるんだ頭の片隅で思っていた。話に聞き耳を立てると彼も同じ県の出身だったらしい。会話をしてなかったから全然記憶にないが。

 東京旅行であったが横浜に車を駐車する予定だったので、横浜に近いどこかの駅で彼を下した。今彼はなにをしているのかは全くもってわからないが、元気にしていることであろう。日本人はいささか優しいなぁ。

冷温

 私は高校一年生の時、学校の語学研修で南半球の英語圏の国に行った。滞在したのは7~8月で、日本では猛暑真っ盛りであるが向こうでは冬並みの気温で肌寒かった。お土産で扇子を持って行ったが、ホストファザーから冗談交じりに「時期が全然違うで」と指摘されたのもいい思い出である。海外こそ初めてではなかったが、学校以外は完全に日本人のいないホームステイだったから生活は苦労した部分もある。今回はその中で生活序盤に困ったことを1つ挙げる。

 あちらの国では、入浴はバスタブを使わずシャワーの人が多い。私のホストファミリーもそうだったらしく、バスタブこそあるものの使われた形跡はない。日本での説明会でも言われたが、どうやら日本と違い水はかなり貴重らしく、水は各家庭にタンクで貯蔵されており一日の使用量は決められているとかなんとか...(記憶が曖昧で多分そんなこといってたな程度)。風呂も、10分以内に済ませと言われていた。ホストファミリーからはそんなことは言われなかったが、自分はできるだけ入浴時間と使用量は気を付けたつもりであった。

 しかし入浴時、私は大きな問題に直面した。それは、水温の調節である。床はタイル張りで冬はかなり冷たい。お湯が欲しかった私は、水温調節のためのハンドルを温水方向に回した。シャワーを出してみるとまだ冷たい。しかしお湯になるまで水を出し続けるわけにもいかずすこし経ってからシャワーを出してみた。しかしいつまで経っても冷たい。出し続けるわけにもいかずその日は仕方なく冷水のままシャワーを浴びた。この寒さじゃ風邪でも引くぞと思っていたが全く体調を崩さなかった。次の日、今度こそはと少量ながら出し続けると温かくなった。よしと思った私はシャワーを普通の水量にした。洗髪をすると突然シャワーから火傷するんじゃないかと思ったくらいの温水が出た。焦って冷水にハンドルを回すと今度は凍てつくような冷水が出た。寒暖差で今度こそ風邪を引くぞと思ったがまたしても体調を崩さなかった。

 数日後、いい温度を見つけその後はなんとか過ごすことができたが、諸君は外国のシャワーの水温はかなり気を付けたほうがいい。私からの忠告である。